平成21年5月22日(金)19:00より三観荘にて、ネットワーク委員会の主催によるセミナーが
開催された。
星野 健司先輩
姉妹関係結んだ当初について
1989年、小柳理事長の頃のパソコンなどと言っても大した物ではなくて、メールはもちろん無い。
そんな状況の中で外国の商品をカタログで見て、個人輸入で引っ張ってきたりそんな国際通路に目を向ける
やっとJCでもそんな事をセミナーでやり始めた頃。
地域国際会委員会というところで、室長の野崎正明さん・副委員長が石月良典君
彼らの委員会が県央地域の国際化とか当時のJCでも姉妹クラブの締結したという話があり、
そんなところに目を向けたらどうかというところでASPACに委員会で出かけて行った。
交流ブースというところに、姉妹を結びたいというクラブが幾つか書いてあり、
台湾と韓国の幾つかのJCの資料をもらってきて、
そんな中で委員会としては台湾というのはなかなか大変なので韓国だったら
アクセスが良いということで韓国の中で探すことになった。
そんな中で比較的新しい南富川JCが創立2〜3年位で、彼ら南富川JCに
ターゲットを絞ってとりあえずFAXの交流を始めた。
行ってみないとわからないということで、まずは委員会の議案というノリで訪韓。
その際には空港に着いたらものすごい歓迎を受け。その流れで庁舎に行って市長に紹介されたり、
あるいは色んな工場等を見学させてもらって、またその夜に熱い歓迎をさせてもらった。
2晩そのような交流をさせてもらいまして、訪韓したメンバーが日本に帰ってきた時には興奮をしていた。
そんな中で訪韓したメンバーは、是非姉妹JCを結びたいということで理事会にこの案件をあげました。
結果十数名のメンバーは「やりたい」と言ったが、ほとんどのメンバーよくが分かっていなかった。
それと比較的韓国という国に良い印象がなかったと思います。
また私自身もそうであった。行ったことも無かったし。
そんな中で、もう少し手紙だけのやり取りをしておけば良いんじゃないかという状況だった。
その年の11月に李さんと言う会長が10名くらいメンバーを連れて三条に来ました。来るという事がわかり、
行ったメンバーはすごい歓迎をしたもらったので、その分お返しをしなければならないとのことで、
2日間、行部・理事のメンバーが中心となり、三条でお世話をすることになった。
南富川JCメンバーが訪日し、日本のJCと姉妹関係を結びたいという要求が李会長の方からあり、
2日間三条で過しまして、最後は東京の方によってお帰りになられた。
その後の理事会で前回のようなお茶を濁すようなことはダメだという事で、結論を出そうという事になった。
大半の方が交流もし、せっかく委員会でやりたいというのならばやれば良いじゃないかという意見もあったが、
やはり数名の理事は交流費用も掛かり、また今は良いけども、
自分達がいなくなった5年後・10年後にこの負担をだれが面倒みるのかという事で問題になった。
しかし当時景気も良かったんでしょうね、新しいことをやりたいという事で概ね賛成という事で
それに向けて動いてみようという事で1990年、佐藤嘉男理事長その時私、専務理事をやっており、
5月に佐藤理事長と島田次年度理事長と松永前委員長等、6名で打ち合わせに韓国へ訪韓した。
その時が私は初めての韓国でありました。
姉妹JCを締結するにあたり、我々の出来る範囲の話をさせていただき、
華美な接待などをなさらないように
という話をしまして、次回いつ来られますか?という話をしました。
我々ハングル語は分かりませんから、とりあえず私達の希望は23日、
JC誕生の日に来て欲しいと要求したが
その日は韓国の旧盆でワーワー言い、あまり良くないのかなぁと思ったが、
彼らの人間性と言うのはやはりものはハッキリ言うし、
怒ったような顔もするけども最後はOKだという事なので
彼らの我々とは違う人間性を見せてもらった。
9月に訪日するという事になり、我々6人が日本に帰って来ました。
1991年、3月に島田理事長以下13名で南富川に訪問しました。
この年は南富川の3周年という事で、仮調印をしたいと要望がありましたのでサインをしてきた。
その時に覚書というものを交わしまして、3年契約で交互訪問・文章の送り先を決めたり、
交流の活動内容も文章内容に入れ締結を結んだ。
9月に南富川のメンバーが訪日し、25周年式典で さらやゆうすけ 日本JCの会頭でありましたけども
当時JCIの常任副会頭ということで立会人になってもらい、金会長 島田理事長 私 さらやさんと5名で
調印をした。その時非常にいい関係が生まれたなと思った。
翌年、15人で韓国に訪問しております。韓国JC40周年の式典に参加、南富川の4周年に参加。
この年に初めてホームステイをしてほしいという事で、
言葉も話せないという事もあり2人ずつペアになり何とか過ごした。
その8月に彼らが参りまして夏の祭りで韓国ブースというものを設けてもらって
色々なことをやってもらって、その夜に我々のところに泊ってもらいました。
93年、私の理事長年度で3月に十数名で韓国に行きました。
5周年で記念事業という事でJCバンドをやろうという事になった。
2000人位の規模でTVも入ってタレントも入り30分位のTVを作りました。
我々も緊張していたが、それはタレントの番組であって、
皆が帰った後我々が出てくれと言われた訳で南富川のメンバーしか残っていなかったと言う
非常に悲しい出来事がありました。
その年もホームステイを行った。
8月に南富川JCメンバーが親子で日本に訪日し、スポーツ交流という事でサッカーをやったり
新潟のNEXT21で遊んだりしました。何が食べたいと聞いたら、
蟹が食べたいと言われたので市場で蟹を箱買いし、
皆で食べた思い出があります。その夜に夏祭りの花火を見て、メ
ンバーのところにホームステイをしてもらいました。
うちにも、朴さん親子が来まして非常に楽しい思い出があります。
94年、米島理事長の時に我々も親子で行ってみようという事で私も子供を二人連れて、
40名くらいで行き、家族にも南富川との交流を理解してもらった。
(2009.5.22[Fri])
本間 哲則先輩
三条JCから燕三条JCへの引き継ぎ
私が理事長をお引きする経緯について若干れておきたいと思います。
燕青年会議所が加茂青年会議所と一緒にトライループという近郊の第3エリアの中で
姉妹締結をしまして市町村合併を目指して、ずっと交流をしてきました。
この話が一番盛り上がっていた時期が90年代の前半〜後半にかけてなのですけども、
私が1989年に入会し、ちょうど一番熱い時期に入ったものですから社会開発系・合併系の委員会に所属しまして、
見事に毎年合併系の委員長だったり、副委員長だったり執行部だったりを経由し、
私が理事長になる前の年の97年に実際、燕と三条の合併話が起こっていたが、
ここに書いてあるとおり三条の理事長というのが斎藤一成先輩、燕の理事長が山後春信さん
この2人と言う人はどちらも懐がデカイと言いますか細かいことを気にしないと言いますか、
山後さんはイケイケのタイプですし斎藤さんは山後さんの思いつきの意見などを、
受け入れるタイプの人で97年の3月に燕と三条、色んな交流があり、
理事長2人で飲む機会があって、飲んでるうちに青年会議所合併しないか?と言う話になったらしいんですね。
たまたま私その時、副理事長だったのですけども同席しておりませんで携帯に電話がかかってき、
「今年青年会議所合併するけど理事長やらない?」と話されまして、
来年か再来年の話だと思いまして「良いですよ」と当時から市町村合併をする前に、
そんなに合併が良いのならお前達青年会議所が合併したらどうなんだい。
と周りから色々と言われてまして合併しなければ駄目だなという思いはあったものですから
「いいですよ」と言う話。それが3月です。
97年6月27日〜合併後の交流計画策定とありますけども、私のところにその話がきて3ヶ月には、
来年の合併後の計画について策定主任として無理やり韓国に三条JCの方に連れて行かされた。
その後の歴史は、山後理事長・斎藤理事長と言うのは指導力もあったし思いも強かったという事で
通常、3〜4年かけてLOM合併というものを6月にはその話を決め、
8月1日に両LOMを解散させ新しいLOMを作りますという決議を三条JCも燕JCも三条商工会議所で同じ日、
同じ時間決議しました。また総会を開催。
そのあと一緒になった青年会議所の創立総会だという事で、三条ワシントンホテルでやりました。
その間のダイナミックな動きというものは、皆さんが想像しても想像できないくらいだろうと思います。
その後10月に日本青年会議所の理事会におきまして燕三条青年会議所が認証されました。
したがって、6月に旧三条JCの方々と行くにあたって、色々レクチャーを受けるが、
当然中心となるのはその年の三条の執行部の方達でした。
97年のLOM合併した時に執行部は92年の斎藤一成委員長がその年の理事長で、
92年の副委員長、93年の委員長をやった荒澤威彦さん、私の後に理事長をやりました。
私の後の後に理事長をやられました松縄嘉彦さんも95年の委員長をやっています。
96年、97年と斎藤一成さんは副理事長、理事長として南富川JCとの交流に参加。
彼らから私に与えられたミッションは、新しいJCを作るので姉妹締結はしませんと言ってきてくれと言うミッションを頂きましてた。
あと受けていたレクチャーは姉妹締結をした時の当時の三条の人口は八万とやや似たような規模の町だと。
位置的にはソウルを東京に例えると、埼玉市・千葉市のような30分位車を走らせれば着くような都市と言う事で行ったが
行ってビックリした事が、5年10年の間に8万人だった人口が10倍の80万人に増えていたと言う事。
あちらの方と言うのは気持ちも熱いですし接待も熱い、語り口も熱いです。
話を聞いてみたいなと言う気持ちもありまして実際いろんなやり取りをさせて頂く中で
面白そうだな、やってみたいなという思いが私の中に沸々と湧いてきました。
プラス、日本人特有の曖昧な言い方をしていたら
あちらの方が怒るのです。怒ってないのかも知れませんが、こちらが涙目になるくらい怒ったような顔で話しました。
辞めるにしても、あちらがどういう交流をしたいのかを話し合わないと上手くないなと言う事で
これから理事長をやるであろう荒澤、松永両氏に「おれも交流してみたいのだがどうだろう?」と相談しました。
そしたら、「やりたのであれば、やれば良いさ」と返事をされました。
そこで詳しいことは後日やることにして、もう一度新しい交流方法を考えましょうと言う事で、
97年に私がミッションをもって訪韓した際いは、一応継続する方向でという事で帰ってきました。
その後のやり取りの中で、やはりあちらは形にこだわるので、とにかく派手な調印とかを好むのです。
我々がその時彼らに言ったことは、10月に認証されたのですが青年会議所というものは認証された後、
認証章を伝達する式典をやると。
翌年の2月、韮澤さんを記念式典の委員長としてやったのですけども、その中で調印しようと。
その中で日本の会頭が北信越ブロックから出向してました新田会頭と言う方が会頭でありました。
新田会頭を立会人として、調印しようと言う事で話をしました。
実際、相手の会頭が体調がを崩しまして副理事長が来られました。
たしか6〜7人だったと思うのですが、1週間前になっても、どの飛行機で来るのかわからない。
そんな事を経験しました。そこで初めて、苦労してきた人達が後輩に重い荷物を背負わせるのはどうなんだろう?
交流を断ってきてくれと言った意味がよくわかりました。
私が理事長をやったのが98年でその後、直前理事長、監事として
もう2年間、いろんな交流にかかわらさせて頂きましたけれども、
やはり担当した委員長とかそう言う方たちは、
いつ彼らがやってくるのか?どんな状態でやってくるのか?ホントに間際にならないとわからないと言います。
そのくせ、ちょっとでもこちらが準備を怠ったりすると怒るんです。
そこが国民性の違いというか、勉強になりました。
韓国との外交を見ていても、日本がちょっとでも弱気になると彼らは好きな様に言ってくる。
これは彼らの気質だと考えれば、すごく理解できるようになりました。
こんなチャンスでもないと韓国との交流はできないと思います。
ましてや、海外旅行ではなくて本当に深くやり取りが出来るわけですから
それなりに勉強になりますし、楽しい部分もいっぱいあると思います。
ただその熱い思いがない方が担当でやらされると辞めたくなるくらい大変な活動だと思います。
そこのところをよく考えて中途半端にしておくと、また5年後に苦の財産、苦のお土産を残すことになりかねませんので、
その辺はよくお考えになって頂きたいと思います。
(2009.5.21[Thu])
韮澤 拓先輩
2004年再調印時理事長
JCだけで10回以上は韓国へいっています。多い年は、1年に3回行った年もありました。
私が理事長の年に調印式の為に訪韓したのですが、調印に関しては良く覚えていません。
それよりも、当時交流した出来事の方が印象的です。
当時の燕三条JCでも、姉妹JCの調印を継続するかどうかがという議論がされていましたが、
私としてはどうでもよいことだと思います。青年会議所の活動の中で、外人と付き合える
チャンス、外国へ行けるチャンスを頂けると思えば良いと思います。
彼らは一流の企業、もしくは人間であるので国会議員の先輩が来られたりします。
私は姉妹JCとの交流は人を磨く良いチャンスだと思っていますので、
姉妹JCと交流為の理由を求める意味がわかりません。
彼らは日本JCのCDを踏みつけるような連中ですから、気持ちが交わるわけがないのです。
思想が違うのに、韓国と日本の考え方を同じにしようとする人たちが
おかしいのだと思います。文化の違いがあるので仕方のないことだと思います。
訪韓すると豪華な接待があると言いますが、私の時はグリーンスポーツセンターの
ような所に泊められて散々な目に合いました。が、それでもまだ当時のメンバーとの付き合いはあります。
交流する為の建前なんて必要ないですし、チャンスを貰えるのなら、貰えば良いと思います。
先ほど、先輩が「後輩にお荷物を残したくない」と言われましたが、私はそんな事はどうでもいいです。
それよりも、現役のメンバーがどう考えるかが大切であって先輩の思いよりも、
現在のメンバーが姉妹交流についてどう考えているのかを大切にして欲しいと思います。
調印について考えるのなら、その労力を是非他の事業に使ってほしいと思いますし、
私は楽しく姉妹JCと交流が出来ればそれで良いと思います。
(2009.5.20[Wed])
松井 健君
2008年度南富川JC対応委員長
2007年度の南富川の窓口として委員長を担当していました。
2006年の公式会議で次年度以降は今までと違う交流をしましょうと決まり、その流れで
私は燕三条JCの10周年の記念式典で南富川JC会長をお呼びし交流をしようと
計画しました。が、先ほどの先輩のお話であったように先方のレスポンスが非常に悪く
こちらの問い合わせに返事が返ってこないので、単独訪韓しました。
向こうへ行くと皆さん非常に良い方で10周年の式典への参加をお約束頂きましたが、
その後執行部の方から,「個人的に訪韓した場合でもLOMの看板を背負って
南富川JCの方と会うのだから、執行部の許可、理事会の承認を得よ」とお叱りをうけました。
その後最終的には、式典へ参加して頂いたのですが数日の滞在で何かと
トラブルになる事がありました。
式典へ参加して頂いた時の公式会議で、今後の交流について色々と決定したのですが、
その後、韓国の青年会議所が日本の誇りプログラムについて反発するデモがありました。
私は姉妹JCは流石にデモに参加されていないだろうと思いましたが、
南富川JCは実はデモに参加されていたようで、その流れで公式会議での決定事項が反故となってしまいました。
私としては、両青年会議所トップ同士の約束を反故にされましたので、
そのような付き合いならこのまま関係を続ける必要があるのだろうかと当時考え、
LOMメンバーに対して意識調査を行いました。結果は回答率50パーセントで、回答を
頂いた答えで一番多かった意見が『良くわからない』という結果でした。
その当時は全体事業にも関わらず皆の興味はこの程度かと思った記憶があります。
(2009.5.19[Tue])
薄田 和輝君
2008年度南富川JC対応委員長
2007年度南富川JC対応委員長である松井執行理事時代に、日本JCの「誇り」プログラム問題から
端を発した、日本JCと韓国JCとの関係悪化によって、南富川JCとの交流もストップしている状況から
委員会を引き継いだ。
日本JCアジアネットワーク委員会土屋委員長に、日本JCとしては韓国JCについてどのようなスタンス
を取られているのかの確認を取った。
あるアジア会議の席上で、日本JCのメンバーと韓国JCのメンバーとの交流について話しあいを持ち、
今までと変わらない交流を続けているとの話し合いをした。
南富川JCの20周年式典は2008年6月開催
日程が一度変更になった。理由は式典の会場が取れなかった為。
当初はOB、現役含めて20名程度の参加予定だったが、日程変更の為に、現役9名、OB1名の参加。
訪問日までの間に委員会メンバーの勇姿でハングル語の勉強をした。
南富川訪問時
公式会議を行い、今年度の燕三条JCの活動を伝えた。また今後はどのような交流をしたいのかも話しあった。
通訳との打合せ不足もあり、当初打合せたいと思っていた内容の半分程度しか打合せ出来なかった。
今回嘉瀬理事長が参加できなかったが、会議ではやはりお互いのトップ同士が打合せをしないと決定できない事が
多くあったので、会議をする際にはお互いのトップは出席していた方が良いと感じた。
話しの中で南富川JC側も今までと同様の交流方法はいかがかと思っていた。
記念式典には中国の青年団体招待され同様に接待をしていた。
OBの五十嵐先輩が韓国訪問中に大変親切に対応してくれた。
(2009.5.18[Mon])
栗山 義徳君
2009年度南富川JC対応副委員長
現時点までの南富川JCとのやり取りを説明
2009年2月下旬に下記質問内容を南富川JC事務局に送付。
2009年3月下旬に下記の回答受取り、。
・2009年度南富川青年会議所会長名
添付資料参照
・2009年燕三条JC担当委員会、名委員長名
添付資料参照
・2009JCI Asia−Pacific Conference June4-7,2009は参加されるご予定はありますか。
来られない。
・2008年6月21日の南富川青年会議所と(社)燕三条青年会議所の公式会議にてお話した
「お互いの町の祭りへの参画」「お互いの町のホームステーイ」についてどうのに考えて
いますでしょうか。(社)燕三条青年会議所としては2009年10月に祭りを予定しております
ので是非こちらに来て頂けないかと考えております。
祭りには参加したい。ホームステーイは会員の都合により難しい。
・今年は5年に一度の姉妹関係調印の年でありますが、こちらは日程等含めどのようなお考えでしょうか。
調印に関しては前向きに考えている。
(2009.5.17[Sun])
今回、このような形のセミナーがあって改めて、南富川青年会議所との交流の歴史が整理され
確認することができた。本年度は5年に一度の姉妹関係調印の年でもあるので、今一度原点に
戻り、調印をするのであれば、向こう5年のビジョンを考えなくてはならない時期ではないだろうか。
広報渉外委員会 小林 貴史